じょっぴん魂の歴史

1998年7月18日設立。
同日、札幌第一高校グラウンドにて、FC ホームレスと対戦。11人中8人が生まれて初めてサッカーボールを蹴る。結果は言うまでもない。それからもしばらくの間も、ひどい目に遭う。

1998年10月17日
公式web公開。
版権にうるさい放送・広告業界の鬱憤を晴らすがごとく、様々な著作や商標権をおびやかしながら、フットボール本来の目的とは違うアングラ方向へも爆走。泪橋を逆に渡る。

1999年5月
徹底した弱さの噂はネット上を駆け回り、対戦オファーが相次ぐ。
特に「はじめての相手はジョッピンカルで」というムーブメントを巻き起こし、多くのチームに、ありがたがられる。

1999年、夏
一年が経過し、業界人特有の飽きっぽさで一時期は30人を越すメンバーが定員割れを起こし始める。一方、一般の方々からの、入部希望オファーが相次ぐ。しかし、映像事業者関連の身内の集いチームの為、やむなく入部を見送ってもらう。

2000年1月
いっそこれらの人たちだけで、チーム創れるんじゃあないか?と独断で一般募集開始。
暫定的にチーム名は「ジョッピンカル新札幌」
軌道に乗るまで、本家ジョッピンカル札幌メンバーが人数補填し、初期メンバー8名でスタート。
インディーズシングル「愛の種」を手売で5万枚売ったらプロデビューさせると約束。

2000年4月29日
ジョッピン・ドームでの合同練習に、ウーゴ・フェルナンデス前コンサドーレ監督が参加。ジョッピンカルの総監督に就任してもらうことを、通訳のトーマス石川さんを通して、強引に承諾させる。

2000年7月29日
ついに外人部隊専用ユニフォームを作成することにする。候補は全身黄色かオレンジ。国民投票の結果、オランダ型オレンジユニフォームが完成。
この時期、続々メンバー増殖。フィールドだけの面識に加え、お互い本名も年齢も知らない間柄、メールとweb告知だけを仲立ちにする「メル友サイバーフットボール倶楽部」として君臨する。

2000年10月7日
基本とインサイドキックにうるさく、その激しいコーチングは相手チームも参考にしていた、本家ジョッピンカル札幌の炎のキャプテン、ドゥンガ斉藤が試合中に事故。
以降の本家興行が息も絶え絶えになり、本家メンバーはピッチに立つことより、グループ運営にウエイトが移動する。

2001年5月
さらにメンバー増員。サッカー経験者、高校生、ライバルチームなどのメンバーも続々入部。総勢40名を越えた時点で、素人親父の出場機会を確保するために、生年月日が1969年以前のメンバーだけからなる「ジョッピンカル1969」を結成。
続いて若手主体の「ジョッピンカルU-23」を設立。

2002年4月
もはや、来るもの拒まずになってしまったジョッピンカル新札幌。
人間的には劣るものの、技術だけは巧みな強力な選手と、日本の教育課程1クラスの規定人数を超えた選手層の厚さに、一旦、間違って強くなりすぎる。
こんなのジョッピンカルじゃあない、との草サッカー界の激しい批判に猛省。
フロント入りしていた本家メンバーももう一度スパイクに履き替え、6月のワールドカップに向けた猛烈なアピールが始まる。
そして初心に戻り、「本家ジョッピンカル札幌」「ジョッピンカル新札幌」「ジョッピンカル1969」「ジョッピンカルU-23」を一旦、「ジョッピンカルFC」と統合し、CI変更を図る。

2002年5月
ジョッピンカル基本デザインマニュアルを一般公開。

2002年6月
「ジョッピンカル1969」専用ユニフォーム完成。6000円のシャツに7000円の装飾費をかけスポーツウェア業界を呆れさせる。

2002年7月
いつまで無条件にメンバー募集を続けるのか?の問いに対し、47人に達したところで年末に討ち入りに行くのだと公言。しかしこの時点ですでに50名を大幅に越えていた。

2002年12月
学生主体のユースチーム「じょっぴんベアフット」をのれんわけ設立。専用ロゴ&ユニフォーム完成。ユニは本家と同じアズーリ。同時に「本家」という日本の伝統工芸的比喩はサッカーチームらしくないとの指摘を受け、「レアル・じょっぴん」に改名。

2003年3月
「レアル」「ジョッピンカル」「1969」「ベアフット」じょっぴんグループ初のダービー興業をつどーむ全面を借り切って開催。早朝5時に55人がベンチ入りするという選手層の分厚さはギネスブック認可申請予定。

2003年11月
創設者のひとりレッチリメンバーが闘病生活の末、他界。
フロント陣の高齢化に伴う寿命を危惧。レッチリメンバーの同期、相川メンバー、身体と健康を心配するサイトをオープン。

2003年11月
創設者のひとりレッチリメンバーが闘病生活の末、他界。
フロント陣の高齢化に伴う寿命を危惧。レッチリメンバーの同期、相川メンバー、身体と健康を気遣うサイトをオープン。

2004年1月
いつかは札幌ドームのピッチへ、の夢がコンサカップにエントリーすることであっけなく実現。開会式に華々しく魅せるべくチームフラッグを12万5千円かけて新調。しかし大会当日、運営上の都合で開会式は省略、大ダメージを受ける。

2004年3月
ジョッピン・ドット・コムのドメイン申請が認可。
公式web「ジョッピンカル(TM)」を全面的にリニューアルオープン。