私(フィリップ・ホモ・トルシエ)が、代表チームをみるようになって、その仕事が昼食時や深夜に及ぶ時、周りの親切なスタッフは「出前をとりますが何がいいでしょうか?」と尋ねてくれる。そういう時、私は決まってこう答える事にしている「丸長以外ならなんでも」
念のため断っておきたいのだが、私は「丸長」に個人的恨みは何もない。世の中(他の出前メニューの中にさえ)には「丸長」以上に高くて不味いものも沢山ある。いくら「丸長」が、そば屋の癖にそばが一番不味く、冷たいそばは、もう少しで餅になるのではないかと思われるほど一塊りにくっついていたり、熱いそばに至っては出前が届くころには冷めたどころか、汁をすべて吸い尽くして、麺はぽわんぽわんの大増量に膨れ上がっていたとしても、私はそんな些細なことが気に入らないのではない。
「丸長」を選ぶということは、楽だからだ。最も安易な選択であるのだ。その妥協は、一種の敗北宣言である。「丸長」が一般の食通をターゲットにせず、映像業界に付け入った理由はここにある。
良いものを食べれば良い仕事ができるという考えも間違っているだろう。しかし「食事なんか一番楽なところでなんでもいいや」なんて考えながら(あるいは何も考えないで)続ける仕事は、ただの力仕事だ。人の心には何も伝える事はできない。
話は逸れるが、オウム真理教の熱心な信者を見た。マインドコントロールされたと言われている彼らは、一様に同じ顔(表情)だ。世の中にはマインドコントロールにかかりやすい人間とそうでない人間が居る。現世に疲れた「丸長」を選ぶ人間とそうでない人間だ。
とは言うものの、世の中はとかく自分の思い通りにはならない。私たちは生きていく上に於いて、しばしば「丸長」を選択せざる得ないときがあるだろう。事実、私の中の諦めの甘い襞の中にも「丸長」が存在するかもしれない。君たちの周りを見渡して欲しい、君の仕事に、恋人に、友人に、家族に、「丸長」の影はないだろうか?
最後にもう一度断っておくが、私は「丸長」が昼休みにキャッチボールをして、そのまま手を洗わずにそばを作り始めている事実を知っていたとしても、「丸長」それ自体を悪く言うつもりはない。
しかし私は今後も「丸長」は食わない。しばしば妥協せざるならないラ・ヴィアン・ローズな人生へのささやかな抵抗と賛美のために。
ロイタ一発・共同通信
あ、それから6月19日にジョッピンカル札幌とマルコーン厚別との試合が予定されていたけど、マルコーン厚別が6人しか集まらなかったため無効試合となりましたとさ。
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