1999.6.21(021)号

フットボールの真実-by F.ホモ.トルシエ 翻訳:榎木津礼二郎

「丸長」というそば屋がある。
一般の方々には殆どしられていない凡庸なそば屋だが、札幌の映像、放送、広告業界で出前専門のこの蕎麦屋を知らないものはモグリとされている。すなわち、昼食時、夕食時を越えた長時間の作業を続ける札幌市内の編集、録音、撮影スタジオ等には「丸長」のメニューが必ず置いてあるのだ。なにも同じ店舗というわけではない。市内20店舗(99.6現在)フランチャイズ形式(おそらく)をとる出前専門の「丸長」は札幌広告業界のバブル期に便乗して急成長し、一気に店舗数を増やした。
あらかじめ断っておきたいのだが、味はどう贔屓目に見ても旨くない、値段も取り立てて安くもない、しかし出前専門の由縁たるものであれば目を潰れる範囲だ。強いて特徴的なことを述べれば、一人前でも出前してくれるし比較的早いほうだと思う。出前を配達するのは一様に、髪を染めた訳あり風の若いお兄ちゃん達である。丸長の店主は保護観察員を兼ねており暴走しかけた若者達を一手に店に引き受けているという噂もあるが真偽のほどは定かではない。

私(フィリップ・ホモ・トルシエ)が、代表チームをみるようになって、その仕事が昼食時や深夜に及ぶ時、周りの親切なスタッフは「出前をとりますが何がいいでしょうか?」と尋ねてくれる。そういう時、私は決まってこう答える事にしている「丸長以外ならなんでも」

念のため断っておきたいのだが、私は「丸長」に個人的恨みは何もない。世の中(他の出前メニューの中にさえ)には「丸長」以上に高くて不味いものも沢山ある。いくら「丸長」が、そば屋の癖にそばが一番不味く、冷たいそばは、もう少しでになるのではないかと思われるほど一塊りにくっついていたり、熱いそばに至っては出前が届くころには冷めたどころか、汁をすべて吸い尽くして、麺はぽわんぽわんの大増量に膨れ上がっていたとしても、私はそんな些細なことが気に入らないのではない。

「丸長」を選ぶということは、だからだ。最も安易な選択であるのだ。その妥協は、一種の敗北宣言である。「丸長」が一般の食通をターゲットにせず、映像業界に付け入った理由はここにある。

彼ら(「丸長」を安易に選択してしまう人たち)はいつも疲れている。彼らにとって食事のメニューに頭を使うことは徒労でしかない。彼らは一番安易で無難な選択に手を伸ばす、刷り込まれた「丸長」の絶望の甘いに落ちていく。さらに「丸長」は彼らのために魅力的なメニューも用意してある。そばにしようか?丼ものにしようか?といった最後の迷いさえ許さない魅惑のメニュー「そばかつ重」に代表されるセットメニューだ。

良いものを食べれば良い仕事ができるという考えも間違っているだろう。しかし「食事なんか一番楽なところでなんでもいいや」なんて考えながら(あるいは何も考えないで)続ける仕事は、ただの力仕事だ。人の心には何も伝える事はできない。

いろいろなスタジオで「丸長」を食いながら編集している風景を見たことがあるが、ろくなものを創っている試しがない。「丸長」を選ぶことには何の目的意識もない。たとえばビクトリアステーションなら自分でそこに出かけなくてはならず、かつ値段が安い、という明確な目的意識が存在する。

話は逸れるが、オウム真理教の熱心な信者を見た。マインドコントロールされたと言われている彼らは、一様に同じ顔(表情)だ。世の中にはマインドコントロールにかかりやすい人間とそうでない人間が居る。現世に疲れた「丸長」を選ぶ人間とそうでない人間だ。

とは言うものの、世の中はとかく自分の思い通りにはならない。私たちは生きていく上に於いて、しばしば「丸長」を選択せざる得ないときがあるだろう。事実、私の中の諦めの甘い襞の中にも「丸長」が存在するかもしれない。君たちの周りを見渡して欲しい、君の仕事に、恋人に、友人に、家族に、「丸長」の影はないだろうか?

最後にもう一度断っておくが、私は「丸長」が昼休みにキャッチボールをして、そのまま手を洗わずにそばを作り始めている事実を知っていたとしても、「丸長」それ自体を悪く言うつもりはない。

しかし私は今後も「丸長」は食わない。しばしば妥協せざるならないラ・ヴィアン・ローズな人生へのささやかな抵抗と賛美のために。

 

ロイタ一発・共同通信

あ、それから6月19日にジョッピンカル札幌とマルコーン厚別との試合が予定されていたけど、マルコーン厚別が6人しか集まらなかったため無効試合となりましたとさ。

 

 目次に戻る それとも に戻るか?