じょっぴん国家を一緒に唄おう!

すんません!うるさかったら大至急、止めてください。

ジョッピンカルって何さ?

1998年7月18日設立。
札幌の映像関連(CM、TV番組、VP等の制作、編集、録音)事業者の中から、自己申告により集められた選抜(草)サッカーチームに始まる。一握りのサッカー経験者と未経験のサッカーファン、そしてそのどちらでもない人から成る。
チームの基本理念は「家族を大切に」。地域リーグ参加予定無し。登録数現在80余名。40試合以上の年間興業とそれを上回る飲み会あり。保険(スポーツ安全)・年一回賞与(ジョッピンカル・アウォーズ)つき。

平均年齢36歳、平均年齢169センチと将来どころか来シーズンさえ危うい。
全盛期の新日本プロレスのように、相手の技にはあえて思い切りかかりまくるリクリエーションサッカーがモットー。

メンバーは中学生から還暦間近な親父まで幅広く、フル代表の他に、U-23、生年月日が1969年以前のメンバーによる親父チーム「ジョッピンカル1969」創立メンバーからなる本家チーム「レアル・ジョッピン」学生選抜「ジョッピン・ベア・フット」と登録メンバー80名を越えるビック(not実力)クラブ。

素人未経験者や現役を退いた高齢親父、札幌に来日したばかりでつてが無い人たちにも積極的に門徒を開く、文化的興行団体である。

代表・榎木津礼二郎 (VJ)
ジョッピンカルへの問い合わせ、対戦希望のメールはこちら。
enokizu@newedge.org

ジョッピンカルのwebはスーパーリンクフリーです。連絡不要。
バナーはサイトマップにあります。

ジョッピンカルって誰さ?

「レアル・じょっぴん」

元祖・本家チームを表す。経験者3名(当時、外国人枠に相当)とインステップキックができない素人からなる業界チーム。現在も多数のオファーがあるが滅多に招集できないため、対戦できたチームは運がいい。
1st:青-白-青(アズーリ)2nd:白-黒-白(偽イングランド)

「ジョッピンカル」

このwebにメールで申し込んできた電脳野郎たちからなるサイバーフットボールクラブ。
レアルの中心的メンバー(not技術)も多数存在するため本体と思われる由縁。年間興業数も最も多いためサッカー馬鹿があつまるのはこのチーム。
1st:オレンジ-黒-オレンジ

「ジョッピンカル1969」

生年月日が1969年以降の親父メンバーで選抜された際物チーム。年齢選抜でなく生年月日にしたことで年々弱体化していくという致命的弱点を抱えながら、結成以来対戦オファーが殺到しているドリームチーム。ユニの肩につけられたスクデットマーク(☆)の数が年齢を表すため、星4つ以上の選手には思いやりを持って接して欲しい。
1st:黒-黒-オレンジ

「じょっぴんベアフット」

学生選抜・若者中心ののれん分けチーム。これまでジョッピンカルの諸先輩たちが親子ほど年齢が離れすぎていたこともあってのびのびと活動できている模様。上記3チームの対戦オファーはenokizu@newedge.orgで申しつけるが、このチームのみ、対戦オファーは代表の柴田メンバー、shibata@newedge.org宛まで。

ジョッピンカルC・I について

「じょっぴん、かる」とは、北海道弁で「鍵をかける」という意味。
北海道の田舎には夕暮れ時に「ジョッピンカケタカー」という鳴く幻の鳥もいるらしい。
イタリア語ではカテナチオ、自軍のゴール前をがっちり鍵をかけてしまうというカテナチオ戦術に通ずることから、「一般公募したくせに、ろくな応募がなかったため、ありがちな言葉をひっくり返しただけ」のコンサドーレ札幌よりインテリジェンスを感じる!とチーム名に採用。
しかし北海道のくそ田舎のチームと思われたら困る、という見栄で「札幌」と弱気のフォロー。いっそ「ジョッピンカル銀座」にでもしようか?との意見もあった。

2002年、CI 変更。地域密着をあっさり捨て、チーム名を「ジョッピンカル」に統合。
愛称は、じょっぴん。

エンブレム・デザイン原案は、札幌在住のイラストレーター、森大介によるもの。ポイントは鍵がちゃんと閉まっていない事か?

じょっぴん魂の歴史

1998年7月18日設立。
同日、札幌第一高校グラウンドにて、FC ホームレスと対戦。11人中8人が生まれて初めてサッカーボールを蹴る。結果は言うまでもない。それからもしばらくの間も、ひどい目に遭う。

1998年10月17日
公式web公開。
版権にうるさい放送・広告業界の鬱憤を晴らすがごとく、様々な著作や商標権をおびやかしながら、フットボール本来の目的とは違うアングラ方向へも爆走。泪橋を逆に渡る。

1999年5月
徹底した弱さの噂はネット上を駆け回り、対戦オファーが相次ぐ。
特に「はじめての相手はジョッピンカルで」というムーブメントを巻き起こし、多くのチームに、ありがたがられる。

1999年、夏
一年が経過し、業界人特有の飽きっぽさで一時期は30人を越すメンバーが定員割れを起こし始める。一方、一般の方々からの、入部希望オファーが相次ぐ。しかし、映像事業者関連の身内の集いチームの為、やむなく入部を見送ってもらう。

2000年1月
いっそこれらの人たちだけで、チーム創れるんじゃあないか?と独断で一般募集開始。
暫定的にチーム名は「ジョッピンカル新札幌」
軌道に乗るまで、本家ジョッピンカル札幌メンバーが人数補填し、初期メンバー8名でスタート。
インディーズシングル「愛の種」を手売で5万枚売ったらプロデビューさせると約束。

2000年4月29日
ジョッピン・ドームでの合同練習に、ウーゴ・フェルナンデス前コンサドーレ監督が参加。ジョッピンカルの総監督に就任してもらうことを、通訳のトーマス石川さんを通して、強引に承諾させる。

2000年7月29日
ついにユニフォームを作成することにする。候補は全身黄色かオレンジ。国民投票の結果、オランダ型オレンジユニフォームが完成。
この時期、続々メンバー増殖。フィールドだけの面識に加え、お互い本名も年齢も知らない間柄、メールとweb告知だけを仲立ちにする「メル友サイバーフットボール倶楽部」として君臨する。

2000年10月7日
基本とインサイドキックにうるさく、その激しいコーチングは相手チームも参考にしていた、本家ジョッピンカル札幌の炎のキャプテン、ドゥンガ斉藤が試合中に事故。
以降の本家興行が息も絶え絶えになり、本家メンバーはピッチに立つことより、グループ運営にウエイトが移動する。

2001年5月
さらにメンバー増員。サッカー経験者、高校生、ライバルチームなどのメンバーも続々入部。総勢40名を越えた時点で、素人親父の出場機会を確保するために、生年月日が1969年以前のメンバーだけからなる「ジョッピンカル1969」を結成。続いて若手主体の「ジョッピンカルU-23」を設立。

2002年4月
もはや、来るもの拒まずになってしまったジョッピンカル新札幌。
人間的には劣るものの、技術だけは巧みな強力な選手と、日本の教育課程1クラスの規定人数を超えた選手層の厚さに、一旦、間違って強くなりすぎる。
こんなのジョッピンカルじゃあない、との草サッカー界の激しい批判に猛省。
フロント入りしていた本家メンバーももう一度スパイクに履き替え、6月のワールドカップに向けた猛烈なアピールが始まる。

そして初心に戻り、「本家ジョッピンカル札幌」「ジョッピンカル新札幌」「ジョッピンカル1969」「ジョッピンカルU-23」を一旦、「ジョッピンカルFC」と統合し、CI変更を図る。

2002年5月
ジョッピンカル基本デザインマニュアルを一般公開。

2002年6月
「ジョッピンカル1969」専用ユニフォーム完成。6000円のシャツに7000円の装飾費をかけスポーツウェア業界を呆れさせる。

2002年7月
いつまで無条件にメンバー募集を続けるのか?の問いに対し、47人に達したところで年末に討ち入りに行くのだと公言。しかしこの時点ですでに50名を大幅に越えていた。

2002年12月
学生主体のユースチーム「じょっぴんベアフット」をのれんわけ設立。専用ロゴ&ユニフォーム完成。ユニは本家と同じアズーリ。同時に「本家」という日本の伝統工芸的比喩はサッカーチームらしくないとの指摘を受け、「レアル・じょっぴん」に改名。

2003年3月
「レアル」「ジョッピンカル」「1969」「ベアフット」じょっぴんグループ初のダービー興業をつどーむ全面を借り切って開催。早朝5時に55人がベンチ入りするという選手層の分厚さはギネスブック認可申請予定。

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