言葉を超えた、さらにいえば言葉を思考する生命の存在をも超えた、およそ想像しうるかぎりの無上の快楽の瞬間がそこに横たわっているとしたら、はたしてそれを「言葉」で描写してみようなどと思うだろうか。

第二章-うたかたのオペラ-悲しき業(ごう)

夜明けに、ふと目覚めてしまう時がある。
白々としていた空が、コップの水が溢れるように蒼く染まっていく。その蒼さは静かにそっと染み込んでゆく。どんなに、その日、太陽が眩しく輝いても、満天の星が夜空に輝いても、僕の心に染み込んだ蒼は消えることはない。

うたかた、とはそんな気持ちだ。

業界裏サッカーチーム・ヘモグロビンの実体が見えてくればくるほど、そんな気持ちにさせる。この先、どうなるのかは解らない。いずれにせよ、行くつく先は、たったひとつ。
もと、いたところだ。もと居た場所に帰るだけだ。

かつての友人の話をしよう。

クマザワヒロヲ、それが彼の昔の名前だ。彼の最初の記憶はゴッサムシティの孤児院から始まる。
孤児院では問題児だった。具体的に何が問題であったか、は問題ではない。多少の異端だけで虐めの対象になりかねない幼く貧困な発想しか持たない少年期時代において、凡庸なる者達には架空の標的が必要だっただけだ。肉体的苦痛を伴う虐めを受けた者の例には多々あるのだが、彼ももれなく、幼いときから男色の傾向があったそうだ。
彼はいつも孤独だった、唯一の友人といえるのは、孤児院の犬だけであった。

犬の名前は、ゴンとムム
額に書かれた、まゆげと「合」の文字。ただし教養に欠ける幼い少年が書いた漢字は間違っている。人間の「業」を背負って生きていこうと誓った幼い彼が書き込んだものだ。
犬は、彼の心の空腹感を満たしてはくれない、ただ、そこに居るだけだ。しかし犬は彼を傷つけない。
ゴッサム自動車工場脇の空き地に2匹と出かけては、地鳴りのような低いモーターの音を聴きながら 毎日、日が暮れるまでボールを蹴って遊んだ。
逆光の中で力の象徴のように聳える、真っ黒い排煙が立ち上る工場を遠くに見ながらクマザワヒロヲは、目を細めた。この場所から這い上がるにはフットボール、サッカーしかなかったのだ。

クマザワヒロヲが最初に入団したクラブは、ゴッサムシティではHBC映画社に並ぶ歴史と伝統を誇る、北海道映像記録だった。
当時、映像記録には、人間冷蔵庫と称された巨漢ディフェンダー、山本史也、斉藤ジョーなどをはじめ、フィジカルコンタクトの強さではイングランドのそれを上回っていた。
クマザワヒロヲの理屈先行のサッカーは頭ごなしに否定され、苦しいサテライトの暮らしは何年も続いた。ミスプレーの連発に坊主の罰を受けたことはもちろん、クラブハウスの2階の窓から両足首だけ持たれて逆さまに吊り下げられたこともある。
男色の傾向は、ますます強まっていった。強い男に屈服することを快楽とすり替えようとしたのかもしれない。
犬だけが、ただそれを見ていた。

ある日、当時暮らしていたゴッサム川向こうのネガティブな路地でクマザワヒロヲはひとりの男と出会った。
現ジョッピンカル・ナンバー7、光成龍一である。
光のスピードより、涙より速く喋るこのカルーセル真木を叔母(あるいは叔父)に持つこの男は、彼をさらなる快楽へ誘った。
スペシャルコース、その店の看板には確かにそう書いていた。
男色とはいえ、ソフトSMがせいぜいだったクマザワヒロヲは一瞬ためらった。店のボーイは彼にそっと耳打ちした「素人さんでは味わえないッスよ〜」
案内された紅い小部屋に入ると目の前に、鉄のバーがあった。「これ、なんッスか?」入ってきた女は答えた「気にしないで、早くそこをつかんで」肩の高さに壁に埋め込まれたそれを両手で強く握り、両脚を開いた。これで、いままでの腐った生活から抜け出せるのかもしれないのだ、歯を食いしばり天を仰いだ。「もう大人になるときが来たのだ」
激痛と快楽。
犬だけが、ただそれを見ていた。

もう大人になるときが来たのだ。なにを引き替えに?なぜ、そんな事をしなければならないのか?
「なぜだ!」声に出して彼は問う、犬には答えることはできない。ダンテが唱った七つの大罪、人間の業を背負っていくと決意した、あの頃。「違う!」大きな声でもう一度、叫ぶ。快楽を選ぶことを堕落というならば、甘んじて受けよう、快楽を選ぶことが私の業だからだ。神?なんだそれは?末法思想を神が唱えるなら、末法の世が来ることを神が知っているなら、何故、それを未然に防がない?神が唱えた末法で、なぜ人の世を神自身で滅ぼそうとするのだ?
クマザワヒロヲは、路上の鉄パイプを拾い上げた。「それなら、私は神と、人間の業と闘う」遠い昔の工場の低い地鳴りの音が聞こえた。彼は大きく鉄パイプを振りかざした。

2匹の犬は一瞬のうちに絶命した。

静かに路上に広がっていく黒い染みを見ながら、がくんと膝をつき、彼は号泣した。声を出して泣いた。彼は誓った、一生、自分が犬の業を背負うのだ。

ジョッピンカル・ナンバー11、クマザワヒロヲのユニフォームの背中には、いまでもこう書かれている。

my life as「Bad Dog」

 

つづく。
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この物語は実話を元に、本人たちに無断で多少の根や葉をつけて脚色したものです。