1980年代と共に現れたサンプリングは音楽表現の革新だった。
録音した生音を使うサンプリングや、人間離れした演奏がいくらでも再現可能なシーケンサーを音楽家として邪道だと思う人も多かった。たとえば、リンドラムという生音のリズムマシンが登場した時には、世界中のドラマーが恐怖したはずだ。そういえば、あの頃、池畑くんという雷ドラマーは北九州中の楽器屋のドラムマシンのデーターを消して廻ったもんだ。テロだ。
一方、日本のシンセサイザーのメーカー、ヤマハやローランドたちも「あんなものは楽器ではない」と判断して、伏兵、AKAIが国内初の本格的サンプラーを大ヒットさせるまで真面目に開発しようとはしなかった。すなわちそれらは求められて市場に現れたわけではなかった。革新とはそういうものだ。
その中でも最高峰は、フェアライトCMIという化け物だった。
当時は日本にもまだ三台しかないと言われていた代物で値段も1200万くらいだった。当然、個人に売ってもらえるような値段ではないが、誰もが身分不相応に憧れた。フェラーリとかに憧れるのと同じようなもんだろう。
ガレージから世界を変えられると勘違いしていた新しもの好きのパンクスたちには当然金がなかった。ちょうどその頃、ワイドショーでは毎日のように「疑惑の銃弾、三浦和義」のニュースに沸いていた。僕たちは口々に「もう三浦になるしかない」と誓い合ったもんだ。そのくらいどんな事をしてでも欲しいと思っていた。
若ければ若いほど誰しも根拠のない無限の可能性があると信じていた。欲しい物はいつか必ずきっと手に入る。もし叶わないとしたらそれは念がたりないだけなのさ。
それから7年後。
僕は、アドビデオというポストプロダクションで映像を生業としようとしていた。
最初にスタジオを訪れたとき、録音室のブースを観て驚いた。
そこに、フェアライトCMIがあった。
忘れていた記憶が一気に蘇ってきた。
なにしろ、あんなに憧れていたはずなのに、いつだってそれはTVや写真の中だけで、実際に目の前にするのはそれが初めてだった。
ただし、すでにフェアライトの時代は終わっていた。
100分の1の金額も出さなくても、フェアライト以上な事ができる国産のマシンもすでに溢れていた。すでにそこにあるその役目を終えた先駆者も、ただ埃を被ったまま静かに眠っているだけだった。
当時の録音部の室長だった酒井さんに、かつて本気で欲しいと思ってた、馬鹿みたいでしょう、という話を切々と話したものだ。後に、酒井さんはあっさりと言った「じゃあ、持って帰っていいよ」
声をあげて笑った。笑うしかない。
かくして、フェアライトCMI は当時の僕の1DKの部屋のオブジェとなった。
しばらくの間、灯を入れる気にはならなかった。
何時間も飽きもせずただ眺めていたものだ。
あの頃、どんなに汚い手を使っても手に入れたいと思ったものが、今、この部屋の冷蔵庫の横に置いてある事実。
そして僕はあらためて思い知る。欲しい物はいつか必ずきっと手に入る。念が叶ったのだ。
ただし、そいつはいつも欲しい時とは限らない。