ぶえのすたるです。
なんか、blogって流行ってるらしいが、blog っていったい何さ?
普段会えない特定の友人との交換日記のようなもんなんだろうか、それとも涸れ井戸に延々、小石を放り込むようなものなのだろうか。
できれば、架空の世界の架空の人物による架空の遠吠えでありたい。
私は杖を振り回すじじいになりたい。
すっかり更新が滞ってしまった。
数年前は特定の友人たちへ書いていたような気がするが、友人たちはみんな死んでしまった。のたれ死にだ。(文面どおりに受け取るなよ)
まあ、そんな理由でずっと滞ってた訳でも、一滴の水を飲めないほど忙しかったわけでもなく、あまりにいろいろな出来事が一気に起こりすぎたからだろう。
正と負の感情はいつも混濁していて自分でも支配することはできない。
「幸せになれよ」と安易な言葉を安易に使ってしまった。
じゃあ、幸せって何?
そこで僕は尋ねてみる「君にとっての幸せとは何か?」
たいていの人は困惑する。「ちょっと、それ、マジで答えなくちゃいけないわけ??」
そうだ、個人的なことでいい。
観念すると照くさそうに答える「わたしが、わたしらしく居られることかな。」
「なんとなく解るけど、駄目。格好つけすぎ。もっと具体的に。」
そして僕は黙り込む。目の前の相手にもう少し考える時間を与えるためだ。
少ない友人関係のアンケート結果を積み重ねるまでもなく、幸せという状態は自分一人では成立できない事がわかる。他者によってもたされるものでもない。幸せには「仕合わせ」という表記もある。会うべき人と出会えることを人は仕合わせと呼びます、てな唄もある。
ここで僕は幸せの定義を「ささやかな充実感、達成感を小さな共同体の中で感じ得る日常」とする。
共同体というのは恋人や家族や友人はもちろんであるが、たとえば宗教のように架空の誰かや存在しない何かであっても充分成立できるだろう。
なあんてね。
これが間違いであった事を僕は後になって思い知らされる。
そういえば、いろんな人に会って同じ話を繰り返しするのは面倒だから、こんなところで書いておくけど離婚した。驚くほどでもない。なにしろ一番、びっくりしたのは俺だもん。
たいていの人は理由を知りたがるだろうし、僕のことをある程度知っている人は、またなんかやらかしたんだろうと思うだろうし、心ある友人よ、どこの女がヘマやらかしたんだ、ヤキ入れてやる、と憤ってくれる必要もない。すべての予想は空を切るだろう。思いもよらぬ出来事というのはいつも想像の範疇を大きく超えている。人との関係に永遠なんてあり得ない。仕事でもなんでもそうだ。
まあ、こんなことを書けるくらいもう客観視できる時間は経ったんだけど、未だ実感がないから、少しポジティブに考えることにした。慰めを求めても「はぁ?意味わからんし気味悪いわ」と引かれるのが周知の事実。試しに身近な独身女性に俺、独身になったんだけど、と訊いてみる。
「どう?」
「リサイクルちゃんは嫌です。」
即答。
だから今、思うのさ。
幸せっていうのはもっとシンプルなもんでいい。
仕事が上手くいったとか、アルマーニのダウンジャケットを買ったとか、マンチェスターユナイテッドがアーセナルに逆転勝ちしたとか、今日が昨日の繰り返しで構わない。つか、それってとても大変なことだ。決して永遠はない。あるのは太陽に番った海だ。(by らんぼー)
もし永遠を作り出したいと思うのなら、それは今しかない。
誓いは未来のためにあるのでなく、今を幸せに感じるために交わすものだ。
しかも、誓いには神様が必要だが、それを破るときには弁護士が必要だと来てやがる。
馬には乗れよ、人には添えよ。
またお会いしましょう。
Posted by enokizu at 2005.2. 7 | トラックバック