昨日、書いた憂鬱を読み返すとまるで内田春菊を否定しているようだが、基本的にはこういう女の人が好きだ。もちろん会ったこともないし、小説もファザーファッカーくらいしか読んでないんで正確にどんな女性なのかは解らないけど。
それじゃあどんな女の人が苦手なのさと訊かれる。
苦手というのとは意味合いが違うかもしれないけど、少し考えて思い出したのが高野理栄子、いや違った、高野悦子。新潮文庫の100冊(今はもう外されたかな)「二十歳の原点」
「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。
小説家ではない。全共闘世代、学園紛争華やかかりし頃の京都の大学生の日記。大学ノートに克明に綴られた日記と詩を彼女の死後、父親が原文のまま出版したものだ。映画にもなったんだっけ?
時代背景(1969年頃の話)も今とはまるで違うし、いまさら買って読む本でもない(詩は綺麗だけど)のでざっと話すと、高野悦子はあまりにも多感で必要以上の自己反省を強要する。レイプまがいの初めての性体験や酒や煙草、辞められない自慰の中でそこから逃避(堕落)できず一身に背負ってしまった希な人だ。深い自己批判の中で最後の日記の後で鉄道自殺してしまう。念のために言っておくが、高野悦子はそうとう綺麗な女の娘だった。
自己批判は楽だ。他人から批判される方が辛いに決まってる。いやいや、高野悦子論ではない。そんな自己の再構築みたいな話は趣味じゃないし、すでに見識のあるさまざまな賢者のみなさんが語ってくださっている。
そういう自己否定(そうやって否定する自己がすでに危ういのだが)人間が手っ取り早く救われるには、男にはまるか、宗教(思想という意味では当時の学生運動も)にはまるしかない。
もっと確実な方法は、男も宗教も一緒にすること、つまり自分の男を神様にしてしまうことだ。
ほうら、やっぱ苦手だ。
要するに、太宰治より川端康成が好きだ。
ネットを捨てて街へ出よ。