2000.9.25(047)号
希望を抱き、恐怖に震え、畏怖にうたれる。究極の歓喜があり、耐えがたい絶望がある。サッカーという冒険には、人間のあらゆる感情が凝縮され、すべての営みが投影される。だから、刻まれた記憶は決して色褪せない。

日本のオリンピックへの総投資額で、アフリカの小学校が57校買えた。
- 特別寄稿、ドラゴン村上の五輪観戦記。-

ぐらしゃす。ドラゴン村上だ。

本山、来い!
抱いてやる!
シドニーオリンピックを観て私はやはり鯨は食べるべきではないと思った。
どうやら私には白人の血が流れているらしい。

”村上さんは今回の五輪代表をどう思ったか聞いてもいいですか?”と聞かれた。
しかし”聞いてもいいですか?”と聞くのはおかしい。
それはエクスキューズである。すでに彼は私に質問をしているのである。

そして、日本のインタビューアーは必ず”この喜びを誰に伝えたいですか?”と質問する。
そんなことを聞いてどうするのだろう。

スポーツ誌は一斉にアメリカに負けた日本を非難しているが、一体何を怒っているのか私にはさっぱり分からない。
確かに高原は決定的なチャンスを2度にわたって外したが彼はもともと、ああいう選手だ。
なぜなら、中田は確かにPKを外したが、中田が悪いわけではない。
中田がボールをセットした時にスペースを作る動きをしなかった 高原が悪いのだ。
加えて、日本のゴールが見たいと言うサポーターを見て吐き気がした 。
まるで子供が母親に甘えてるようだ 。
甘えるという言葉は英語にはない。

日本とアメリカの勝敗を決定付ける象徴的な出来事があった。アメリカが得点した後のパフォーマンスだ。

彼らはコーナーポストに駆け寄り、一見奇妙なダンスをした。あの時、選手、監督、スタジアムやテレビで観戦していた人の中で、力士が塩を蒔く姿と符号することに気づいた日本人は何人いただろうか。
言うまでもなく、自分たちは日本文化を取り込んでやるというメッセージであった。あらゆる人種を取り込んできたアメリカという文化が、自国の伝統やスタイルに誇りを持てない日本人を飲み込んだのだ。あの時を境に、ピッチは土俵となった。アボガド寿司を思わせるアメリカ流の土俵だ。

トルシエはなぜあの時日本のアイデンティティを守るために動かなかったのか。日本人選手の中で最も力士を連想させる稲本の上半身を裸にするべきであった。

4バックとか3バックとかにこだわるのは日本だけである。
私はいつも3Pも4Pもするが要はどれだけエクスタシーに浸れるかである。
3人でやるのも4人でやるのも変わりはない。日本のメディアがこうである限り宮本の頭髪は薄くなる一方だ。私は残念でならない。

柳沢はなぜシュートを打たないのだろう。
それは彼がデルピエロを夢見ているわけでもなんでもない。
シュートをはずして、空港で水をかけられるのがこわいのだ。

柳沢の技術は圧倒的だ。
彼はシュートを必要としない。

柳沢は4試合で1本しかシュートを打っていないのに見事にゴールに決めてみせた。これを圧倒的な技術と言わずになんと言うのだろう。なぜトルシエ監督はアメリカ戦まで 柳沢にシュートの許可を出さなかったのだろう。
まあ、そんな事は熱海の汚れた海を見ているとどうでもよくなってくる。

20時間後にはキューバだ。

ロイタ一発・共同通信

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