草レベルではいまや日本最大級(not強さ)のビッグクラブとなったジョッピンカル。
たとえフットボールクラブであってもいまや、よさこいなどのイベントに食われてジリ貧になった「豊平川イカダ下り」を支援する社会貢献はビッグクラブとしての当然の使命である。
そもそも映像製作関連事業社自己選抜フットボールクラブで始まったジョッピンカルが、その垣根を越えて広くメンバー募集を始めたのは、転勤や進学、里帰りや都落ちなどで札幌に入植してきた身寄りのない人たちを救済するするためであった。
そういった異邦人(notえいりあん)であればなおさら、母なる豊平川は札幌の象徴にもみえたはずだ。だいたい街の真ん中に大きな川がある事自体すばらしい。かつて市民生活の中心だったはずだ。今でも円山、宮の森界隈にすむセレブは豊平川を境に「川向こう」という差別表現を使うくらい文化に根付いている。
この母なる川の夏の風物詩が札幌以外でもできるような他のイベントに取って代わっていくのだとすると淋しいものだ。
そうして、2004年6月16日。
ジョッピンカル一部のフロントの独断によって、7月11日に行われる第三十回サッポロ豊平川イカダ下り出場を決断した。
その高貴な志はわずか10分後に打ち砕かれることになった。
エントリーの締め切りが過ぎていたのだ。
いったんはあきらめた夢であったが、榎木津代表は「豊平川イカダ下りを愛する会」会長の携帯電話番号の入手に成功。直接の迷惑電話と豊平川に馳せる熱い思いが、追加エントリーを勝ち取った。
追加エントリーの手続きの為には、中央区民センターにて行われる実行委員会の出席が必須。ここはBdの出番だ。
「もしもし、熊ちゃん。明日の夕方、お願いがあるんだけど。お願いというより命令なんだけど~」
以降、Bdは主務としてのポストに就くことになる。
あるいはこの時点で、正月のコンサカップで彼が全体進行を司ると大変な目に遭うことを我々は思い出しておくべきだったのかもしれない。
Bdを委員会に送ったところで、榎木津&みっちゃんで企画骨子。
これが当時の初期プランニングのメモである。
サッカーチームらしく、イカダ上をグラウンドに見立てアベジやロビーにリフティングやPKでもやらせようという案。
浮力はサッカーボールか。
ここで、実行委員会で延々と1時間も絞られて洗脳されて帰ってきたBdの炎のアドヴァイス。
「これ大変なイベントです。とにかくイカダを舐めるな、と言われました」
とりあえずイカダ下り実行委員会の使命は事故防止。
大会規約もとにかく安全だったら死んでもいいってくらい事故防止にのっとった分厚さ。
最初からゴムボート買ってきて、それに上物を乗せてもいいくらいだという事らしい。
フロントのプランニングは根底から覆され、軌道修正を余儀なくされた。
こういう時は開き直りが肝心。
俺たちは素人だ。
とりあえず確実に浮かぶ、進むものを作ろう。
いっそ船だ。
ここで天才まろりんたんが書いてくれた一枚のスケッチがプランニングを急展開させた。
ここで情報完全公開。
さまざまな職種の人間が集まるジョッピンカルの層の厚さを証明するときが来た。
いまこそ英知を結集するのだ。
第一回ミーティングが深夜の宮の森スタジオにて行われた。
この席で船舶の基幹部分を担当する、あるまんど、バーボン、グッチーを中心にした第一制作部を設立。船舶の上物関係を製作する、みっちゃんを中心にした第二制作部と二頭体制で臨むことになった。帆や衣装関係のデザイン部門は榎木津担当になったが以降、文化服装出のコバにバトンタッチ。船上でのイベント関係担当に転籍することになる。
この日のミーティングは、工学部機械工学科卒のあるまんどの執拗な浮力計算と寸法出しに焦点が絞られた。まず、どのくらいのモノを作るかを決めないことには進められない。
最初の難関はイカダのサイズ。大会規約は3mx3m以内。
横幅はあっさりと決まった。
イカダの製作場所にラジオでおなじみの和のアートの達人アベジの事務所を勝手に占拠しようと企んでいたのだが、アベジは「うちは間口が1.8メートルしかないから無理だ」と回避しようとしていたからだ。
だからして、横幅は1.8メートルに決定。
次は長さだが、企画に乗っ取った1.8X3メートルではいかんせんバランスが悪い。
議論が困難に陥ったときには視点を変えた3次元的思考が必要だ。
しかし、第一制作部はもっと直線的思考を持ち合わせていた。
「そんなもん、はみだしちまえ」
そんなことしたら、出艇取り消しになるかもしれません!という洗脳されて帰ってきた主務Bd以外の多数決であっさり決定。
また、この日は搭乗メンバーの提出日。
暫定的にBd、相川、みっちゃん、タッカー、榎木津、まつも、ローリー、ダディ、カイザー、ロビー、が登録された。
サイズが決まったところで資材確保と予算繰りだ。
製作資本金はフロント6名が資本金を出資。不足分をじょっぴん会費で補うこととした。
その上心強い事に、基幹部分の主要資材は第一制作部のメンバー自らが無償調達してきてくれた。カイザーやあるまんどがタイヤチューブを手配、コンパネはバーボン、その他の建築資材はグッチーがピッチ上とは違って愚痴ひとつ言わずに迅速に手配。
順調な滑り出しを見せたかのようだった。
一方、第二製作部は資材となる大量のスタイロフォームやマスト部を司る塩ビパイプの手配の暗礁に乗り上げていた。
その時、主旨に賛同して名乗り出てくれた一人の男がいた。
ライバルチーム「ええねん」のあまざきはゆみ代表であった。彼は膨大な帳簿外在庫を無償提供。
ピッチ上ではともに骨肉を凌ぐ争いをするライバルチームの美しいフェアプレイにジョッピンカルは心を打たれないわけにはいかなかった。次の試合での八百長を確約した。
あまざき氏はその時のスタイロフォームについてこう述べている。
「スタイロフォーム」はダウ加工というメーカーの商標でして、一般名詞は「ポリスチレンフォーム」といいます。私が持っているのはJSPというメーカーの「ミラフォーム」という商品になりますが性能は同じです。
さすがプロはいちいちうるさい。
同じくライバルチームへの協力要請として、船上から飛ばすことになった風船のためのヘリウムガスの手配も記しておかねばならない。燃料といえば元大同ほくさんソフテックを母体とするMMC(もりもりチャンピオンズ)格安でボンベを購入させてもらった。
MMC森保氏は、その頃を振り返ってこう語っている。
今回ご用意するヘリウムでございますが、アメリカはペンシルベニア州アレンタウンで天然ガスより分離して作られ、-269℃の液化圧縮状態で輸入され、ご賞味の直前で小分け移充填されたセレブな一品でございます。きっと皆様方にご満足いただけるものと思います。
さすが、こっちもうるさい。
札幌市内ICC(インタークロスクリエイティブセンター)の一室にじょっぴんイカダ下り特別対策本部が設置された。
同施設に入居する「moco」(notライバルチーム)のはからいで格安に二週間確保。
なにもこんなところで金を使う必要もあるまいと思うかもしれない。
しかし、なにごともまず形から。
ジョッピンカルがアマチュアレベルでは他の追従を許さない最も高価なゲームシャツを作ったように、何事も入り方が肝心だ。大きなお金を使えない男に大きな仕事はできない。
クリエイティブな空間に場違いな親父たちが入れ替わり出入りすることになる。
手薄だった塗料関係他の闇ルートをダディが確保、と資材はどんどん揃っていった。
同時にみっちゃんのスケッチを元にジャンルカが正確な図面を引き直してくれ、CADデータにより3D化。幸いにも我々はあがりのイメージを知ることができた。
う〜ん、海賊船というよりまるで難破船だな。
そういう事で、さらにサイズ変更。制作場所を新たに確保したおかげで1.8メートルの縛りを越え船はさらに巨大化をたどる。この時点ですでに長さは4メートル。マストもさらに高く。
大会も一週間後に迫った頃、ようやく我々は重要な事に気づくことになる。
そろそろ作り始めなくては間に合わないという事だ。
以降の最も濃かった3日間のことは実は私は正確に記述することはできない。
幸運にも海外出張のため札幌を離れていたためだ。
しかし、私の元にはみっちゃん率いる第二制作部の面々から人使いの荒さに対する苦情が届いていた。なにも夜中の3時近くまで働かされていたからではない。その間、飯を与えなかった事についてである。それでも「俺たちの目標は北海道新聞の一面を飾ることだ」とメンバーを叱咤していたみっちゃんはこの時点で、7月11日の本番が参議院選挙と被っていることを知らなかったようだ。
基幹部分を司る第一制作部はバーボンが確保してくれた新川のガレージに場所を移動した。
入れ替わりにコバのデザイン部がICC本部にミシンやPCを持ち込み本格的な帆や衣装関係の制作に入った。
新川での制作は急ピッチで進んだが、第二制作部付けのダディとロビーのツートップが舞台に暗雲を垂れ込ませた。中でも左右一対の部品をつくってくれと頼まれたダディが右と右のパーツを必死扱いて作ったことで彼は以降、できない男の称号を背負うことになる。
ICCデザイン部では、衣装の数合わせ、帆の制作、プリント作業が、みっちゃんと無理矢理つきあわされたBdによって深夜まで行われた。
この後、このICC本部を引き払い新川製作所へ合流することになる。
この日、深夜、榎木津代表が帰国。入れ替わりにラジオの達人アベジが国外出張へと旅立った。
本番にも合流できない彼は熱い思いを残すべく、甲板に乗せる二連式大砲をたったひとりで作り上げ残していった。その熱い思いは今でも新川のゴミ捨て場に放置されたままだとしても。
新川ガレージにて一応の完成。
一応というのは、すでに船は巨大化の一途をたどり、ガレージではもうこれ以上入らなくなったからだ。明日、搬入時のタイミングでマストを立てることになった。
リアには協賛ライバルチーム「ええねん」と「MMC」の文字。
乗り降りが困難になるため、第一制作と第二制作とで揉めた海賊船の横板を付けるか否かも左右に乗降口としてのドアをつけることで解決した。
小雨降る中での前田森林公園FCドルフィン戦を終えて、新川ガレージへ集結。いよいよ豊平川へ搬入準備が始まった。
ついにガレージから運び出された「じょっぴんブラックパール号」
ここで主務Bd仕切による最終乗組員のスタメン発表が行われた。
海賊船の予定定員は5名。同時に申し込んだ一人乗りチューブ下りも5名。
Bd曰く、途中で海賊船とこの一人乗りチューブが合流して、10名でひとつの作品として昇華するという。
クラブ会費も使っている以上、公平な人選方法が模索された。
まず、昨年の出場Cap数を優先。乗船選抜メンバー内では、相川、タッカー、ローリー、Bd、榎木津となるが、クラブになるべく迷惑をかけないように資本金出資制度がとられ、出資比率順に、榎木津、みっちゃん、相川、タッカーの4人が決まり、残り一枠にBdは急遽この日ロビーに「一回、観ておいた方がいいよ」と誘われてたまたま初めて現場に来たいちくんを強制指名した。
全員40代では大きくなりすぎた船のコントロールは困難である。力仕事をする汗かき役が必要だったのだ。
一人乗りチューブ下り隊は、いちくんと代わったBdを筆頭にローリー、ダディ、まつも。そしてまた空いた一枠に、これまたたまたま現場を見届けに来たレアルメンバーの森井が強制指名された。
衣装が各自に配布され、小雨降る中、あるまんどの8tトラックで搬入が始まった。
同日、19時。豊平川幌平橋、スタート地点への会場入り。
出艇番号順にライバルチームのイカダが並ぶ。今年は全25艇。
その河川敷に並ぶライバルチームのイカダを初めて観て、我々は愕然となる。
がせー。
小さい。
まだ作ってる?
おまえらイカダを舐めとんのか、と小一時間問いつめたい。俺たちが通常業務を臨時休業して、何十人がかりで何十万もかけて挑んできた大会がこれか?
まあ、うちがやりすぎなんだろう。
しかしながら、かつて栄華を誇った豊平川イカダ下りの衰退を感じないわけにはいかなかった。
その捨て鉢として市民貢献を目指した俺たちは間違っていない。
仕事でもなんでも金をかけたところに金は落ちるのだ。
そんなわけで、でかさと完成度は一目瞭然、大会スタッフを含め様々な人々がじょっぴんブラックパール号に賞賛をあたえにやってきた。これで気をよくした榎木津代表は船上の火気厳禁を突破すべく、世界のドラゴン花火セット1年分を帰りに購入するに至ったのである。
小雨降る大会当日。じょっぴんメンバーたちも続々集結。
パイレーツっつか、タリバンか占い師だな。
しかし、当日、朝も大会屈指の「じょっぴんブラックパール号」は取材が殺到。
スタッフ女子や見知らぬガキなどに一緒に写真を撮らせてくださいとこの日人気者だったのも確か。
いよいよ本番。
まずは、10:00。
一人乗りチューブ下り隊が出発。
頭や首にバンダナ、スカーフや飾り物の出で立ちに大会スタッフは「水の中で身体や首に絡まったりすると大変ですよ」と軽く牽制。しかし常軌を逸した5人組に「じゃあ、後は自己責任で」とあっさり放置されてしまう。
見るからに寒そう。雨の中、豊平川に放り出された5名。第一堰堤で待て、との指令。
遅れること約30分。「じょっぴんブラックパール号」いよいよ出艇。
すでに大会規定を大きく越えた重量は搭乗メンバーでは運べず、じょっぴん地上班の力を借りる。
「スタート地点は足がつかない」という事前情報がガセだったことに安心したものの中山峠の雪解水、豊平川は恐ろしく冷たい。しかも乗り込もうとした直前、係員は恐ろしいことを告げた。
「まず、川の中に肩までつかってください」
ハプニング等で川の中に落ちた場合の心臓麻痺防止のためだそうだ。
「ちゃんと肩までつかってください」という係員の制止を振り切って船に乗り込む榎木津といちくん。
いよいよ、スタート。
安定した滑り出し。あるまんどの浮力計算に間違いはなかった。
ただし、航海に出ていきなり「じょっぴんブラックパール号」の致命的な弱点が露呈した。
まっすぐ進むための仕組みを作っていなかった。
すぐに船は回転を始めた。
迫り来る最初の難所、第一堰堤。
ここを横向きで滑り落ちるのは危険だ。
河川敷から見守る基幹部、責任者あるまんどは「タイヤ2つで受けるより3つの方が受けやすいもん、横になるのは仕方ないしょ」とさも当然のように見送っていた。
ここから舵取り役のいちの仕事が始まった。
ピッチ上のそれを越えるコーチングと運動量。想像しがたい人は「ふぁいとー!」「いっぱあーつ!」を延々、ひとりでやっているところを想像して欲しい。
堰堤越えを目前に「危ないので一端降りた方がいいですよ」という係員のアドヴァイスに耳を貸さない二人。船を下りるのは船を捨てるときだけだ。そういえば、実際、1万5千円相当のおもちゃを買い込んだのだが、ほとんどこの1000円のシャボン玉作成スティックしか使えなかったもんだ。
おりゃ、おりゃ、おりゃー!堰堤突破
この後、一回、死にそうになるが、船の強度は完璧だった。特にグッチーの立てた強固なマストはまさに精神的支柱だった。
一方、先発の一人乗りチューブ下り隊。
ローリーに至っては、係員に「落ち着いて!落ち着いて!」と叫ばれるくらい大パニック。
ブラウス一枚で川に入ったメンバーが水温に震えるのも当然。
真っ青な顔で身体の震えが止まらない森井も係員の「大丈夫ですか!」という呼びかけに「ダイジョーブ、ダイジョーブ」と全然、大丈夫ではない蚊の泣くような返事。以降、チューブを捨てて合流したブラックパール号に拾われることになる。
ダディ以外のメンバーはこの時点で完全に壊滅状態であった。
ついに合流。チューブ隊長のBdに「で、この後、どうするんだっけ?」と訊くと「もう自分のことだけで精一杯です」と戦意喪失。
それどころか近づいた一人乗りチューブを流されたブラックパール号が襲う。
危ない、止まれ、無理!逃げろ!
巨大な船は制止が効かず近づいたものたちに次々に襲いかかる凶器となった。
いやあ、最後スタートでよかったわ。
他の船と一緒だったらマジで海賊船になるところだった。
豊平川は意外と浅い。その為にしばしばチューブが川底に引っかかった。
上の写真(クリックで拡大)は、タッカーが船を下りて押してくれたものの、船が急発進。
いちが竹竿でブレーキをかけようとするが勢いがついた巨大な船は止まれない。
必死で船を追うタッカー。距離は広がるばかり。
みっちゃんは紐につながれたシャチの風船でタッカーを助けようとするが、ロープが邪魔で投げることができない。ゴールが近いと相川の警告、宝箱を開けるタイミングに間に合わない。絶望的に引き離されるタッカー。みっちゃんの英断「タッカー、もう俺たちにしてあげられる事はない。あとは自分でがんばれ」
いちの炎のアドヴァイス「タッカーさん、水に逆らっちゃいけない。身体を沈めて川の流れに乗ってください」
タッカーのサバイバルが始まった。
まさに大会史上初、一人チューブなし下り。
かろうじて船に追いついたタッカーの快挙は何らかの賞に値しても良かったのではないだろうか。
ゴールに合わせて宝箱から150個のヘリウム風船、射出。
しかし、一条橋付近では岸との間の水草の背が高く、川辺に降りてきた人しか解らなかったかも知れない。
こうして、ひとりの脱落者も出さずに通常は20分程度で下るらしいイカダ下りを40分以上かけて完走。おかげで多くの岸に上がるとすでにメイン会場では昼休みフォークコンサートが行われていた。
ジョッピンカルの挑戦は終わった。
大会終了後の表彰式では「イカダ匠賞」を受賞。
メインの最優秀賞や2ndに相当するサッポロビール賞などの本道と外れた冒頭の受賞に納得できないメンバーも多かったようだ。
しかし、考えてもみたまえ。我々は門外であって亜流なのだ。
社会貢献を目的とした今回の参加で、仮に本流の受賞をしていまうと今後、あとに続くものにとっては敷居が高くなる。こんなにスポンサーや企業の後ろ盾もなしに25万も出して大勢の人間が昼間っから製作できる団体なんてありえないだろう。そういう意味ではやりすぎた。
審査員の判断は正しい。
全盛期は300艇近くも出場した豊平川イカダ下りも今年は25艇。
衰退しているありさまは明白だ。
そもそも今回、会期中にどこの局のビデオクルーも観ていない。
各選挙事務所に配置されたカメラを一台も廻せない程度のニュースバリューなのだろう。
それでも大会運営のボランティアスタッフたちは好感が持てる。
このイベントに対しての愛情が本当に伝わってくるからだ。
パッシヴに栄誉を受け入れよう。数ある賞の中でも最も工夫や技巧を凝らしたイカダである事が評価された。我々は初参加でありながら最高の造作を評価されたのだ。日夜、がんばってくれた制作部のメンバーたちの勝利だ。
またメンバーの中には直接、製作を手伝えないことに対して申し訳ないなんて言ってくれる人もいるがそれも間違いだ。通常の興業でいつものようにワンコインを置いていってくれた時点でみんな強力な支援をしてくれたことになる。
すべてのジョッピンカルメンバーに感謝と祝福を。
我々は斜陽の豊平川イカダ下りに一石を投じた筈だ。
大人が遊ぶときには全力を尽くして遊ぶのだ。
1等賞は逃がしたが、後悔はない。
記録には残らなくても観てくれた人たちの記憶に残ればいい。
いつかジョッピンカルを越えるプロジェクトチームが豊平川イカダ下りに現れてくれることを期待しよう。その時はもう一度、クラブの総力をあげてエントリーするだろう。
NPO団体化するジョッピンカル。
メンバーの中には次回への挑戦を期待するものも居るかも知れない。その考えはもはやスケールが小さい。次回の挑戦を検討するより、もはや大会そのものを企画運営する立場を目指すべきではないだろうか。
でも忘れてはならない。
我々はその前にフットボールクラブなのだ。
忘れてたけどな。